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【王道を歩む画家・山田りえに期待する】
岡本太郎は、「綺麗」と「美しい」を厳しく峻別した。 その理論が彼の芸術を支えていた。 「綺麗」とは、外面的なまとまりを指す消極的な肯定に過ぎない。一個の作品が「美しく」あるためには、その内面に生命の炎が燃え盛っていなければならない。俗な馴れ合いを積極的に否定する気高さ、生死の矛盾を超克する気迫がなければならない。綺麗は安全であり、美は危険である、と岡本は激しく説いて倦むことを知らなかった。確かにここに芸術の本質がある。 山田は花を多く描いている。 その花は艶めかしく、死の臭いを漂わせている。滅びの予兆がそこにある。「今この時を」と咲き狂う花たちは、生命の意味を問い掛ける。 本物の生命力は、静かに死を受け入れる諦念から湧き上がる。その瞬間に燃え尽きる、その儚さこそが美の本質である。永遠の生命を否定する時、パラドクスはそこに永遠の美をもたらす。瞬間こそが永遠なのだ。死を生きる、その心意気こそが美の正体なのだ。死を見据えないもの,それは美とは無縁の偽物であり、芸術の名に値しない。 山田の花は美しい。その花は危険である。 遠くの者を吸い寄せる。近づく者を惑わせる。 覚悟があるなら咲いてみよ、と見る者すべてに迫ってくる。 挑み、破れ、そして悔いなく散っていく、その潔さに我々は躊躇い、戸惑い、そして勇気づけられるのである。我と我が身を重ねては、「嗚呼」と思わず呻くのである。 昨今、あらゆる分野において、伝統の重みに耐えかねて、「敵前逃亡」を図る者が後を絶たないようである。新しい技法であるとか、新感覚であるとか、言葉はそれぞれ華やかであるが、それらは何れも、伝統という壁の高さに恐れ戦き、怯んだ弱兵の寝言に過ぎない。 山田は、正攻法の技術と高い志をもって、真正面から日本画の神髄に切り込んでいく本格派である。勇猛果敢に挑むその姿は、勇者のそれか、はたまたドンキホーテか。その将来は全くの未知である。大きく咲くも小さく咲くも、これからの精進一つに掛かっているだろう。それは厳しく孤独な闘いに違いない。恃む随伴者の居ない暗闇の登山に違いない。 しかし、王道という名の薄氷に、自らの全体重を預けて奮闘する独りの画家を、応援せずにはいられないのである。どうやらそれが「妖しきその花の魅力」に取り憑かれた者にとっての宿命であるようだ。未完の大器に期待する所以である。 美学白紙 吉田 武 |
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