|
![]() |
|
![]() | ||
| 2010/07/9-17 | ||
| 万葉を描く日本画展ーvol.2 | ||
| 昨年立ち上げた万葉歌と日本画のコラボレーション企画が今年も。京橋界隈の参加展覧会のため初日からにぎわいをみせた。昨年のオープニングのテーマは万葉草祭りで山菜尽くし。今年は瓜食めば、から万葉瓜祭りとした。胡瓜、西瓜、干瓢、隼人瓜、ついでにマンゴーまで。画像はその顛末である。 さて、五十音順に画家ごとの一首をご紹介しよう。 池田美弥子 鎌倉の 見越しの崎の 石崩の 君が悔ゆべき 心は持たじ」巻14 3365 (東歌)訳 鎌倉の見越しの崎(稲村ガ崎)の岩が崩れるような、あなたが悔やむような、そんな心は私は持ちませんよー 東歌から稲村ケ崎を詠んだこの一首の他、沖縄の店先と雲湧く山を描いた。 織田梓 山振の立ち儀ひたる山清水酌みに行かめど道のしらなく158高市皇子尊 訳ー山吹の花が美しく飾っている山の泉を酌みに行って蘇らせたいと思うのだが、道を知らぬことよ。この他、雪に春の気配を隠らせた「眠る岡」を描いた。 越畑喜代美 高円の野辺の容花面影に見えつつ妹は忘れかねつも 大伴家持 8巻 1630 訳 高円の野辺の容花(ヒルガオ)のように、面影にばかり見えつづけて、あなたは忘れることができないよ。 もう一点は月読の歌に犬を添えた。 小松謙一 あしひきの山河の瀬の響るなべに 弓月が嶽に雲立ち渡る 柿本人麿 巻7 1088 訳:河の瀬音が高く響くにつれて弓月が嶽に雲が沸きあがって動いてゆく 小松はガラスとのコラボ作品とともに水墨の軸と扁額を描いた。 鈴木強 神奈備の山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや 2162 詠み人しらず 訳 山の下を流れる水のおとに呼応するように蛙が鳴いている。秋になったのだなあ。 蛙の他、白いネズミも描き縁起の良い三作とした。もちろん額も金箔。 松谷千夏子 風莫の浜の白浪いたずらに此処に寄せ来る見る人なしに 長忌寸意吉麻呂(巻9−1673)訳:この風なしの浜辺に白波は飽きずに寄せては返している。それを見ている人の姿もないのに。軸装の海景二点の他、松を描いた。 山下まゆみ あかきひのかたむくのらのいやはてにならのみてらのかべのゑをおもへ 會津八一 訳 茜色に染まった空の彼方を眺めていると奈良時代の人々の生活模様がみえる 万葉ぶりの歌人・會津八一の歌二首に猫を絡ませて「万葉猫」と命名した山下まゆみはただものではない。 山田りえ 夏の野の茂みに咲ける姫由理の知らえぬ戀は苦しきものぞ 巻8 1500 坂上郎女 訳 夏の野の茂みにひっそりと咲いている姫百合のように、人に知られない恋は、苦しいことです。他一点は夏草に恋の歌をかけて止まぬ恋心を草に託した。 万葉の歌は感情を豊かに歌い上げてしかも素朴に伝わる。歌とこれら絵のあいだによこたわる空間を読み取り、そこにもう一つの世界を作り上げるのは、むしろ観客たるわれわれの仕事であろう。 | ||
![]() | ||
| 2010/06/24-30 | ||
| 安住小百合展 | ||
| 安住小百合の個展も今回が十周年の節目を迎えた。中学生と小学生だったお嬢さん方も社会人と大学生となった、と聞くとこの年月の重さを思わずにはいられない。 初めて画廊にいらした頃とその優雅なマダムぶりはいささかも変わりはないが着々と歩を進め、しばらく休んでいた日展出品も2004年から再開、画歴を見ると獅子奮迅の働きだ。いつどんな風に絵を描く時間を作っているのか不思議でならなかったが、鶴が羽根を抜いて織るように寝る間を惜しんで制作していたという。 今展では、メインの壁面に今まで描いた20号の花作品を10点並べ、格天井のような迫力ある空間を作った。同サイズの作品を毎年3〜4点描き、もう20数点あるという。この思いで続ければいずれ本物の格天井になる日があるに違いない。 一方、新作の花たちもいずれがあやめかかきつばた、華麗に競演している。山野草も含めて季節の花々を丹念に取材して作品化している安住小百合にもまだ描いていない「花」があるという。相撲甚句の「花甚句」を聞きながら、これから描く花を指をおって数える彼女をみていると、10年の助走を経ていよいよこれから佳境を迎える画家の華やぎが感じられてなんとも心強い。 そしてそんな彼女を、これからも支えてくれるだろう応援団とともにずっと見ていきたいと願っている。 | ||
![]() | ||
| 2010/06/14-22 | ||
| 男が描く男・女が描く女展ーvol.2 | ||
| 昨年立ち上げた男が描く男・女が描く女展は、中 千尋(なかちひろ)とコヤマイッセーをあらたなメンバーとして二回展を開催した。 ジェンダーシリーズとしては「男の墨・女の墨」に連なるものでメンバーも何名か重なる。墨展の方は墨を共通項として、今展は人物を共通項としてその性差を考えるという企てである。 御大・伴清一郎(今年還暦!)を筆頭に年の順に紹介すると、若作りながらともに五十路を迎えてはや一年の平野俊一と松谷千夏子、もうすぐ不惑の阿部清子(アラフォー!)、少し遅れてついて来ますという風情の佛淵静子、見た目は貫禄の多摩美後輩・木村浩之、ほっそりした指が印象的な奥津直道、着物姿もりりしい筑波大の才媛・中 千尋(アラサー!)最後にひかえし武蔵美ーズのコヤマイッセーという順番になるのだが、経歴も年も画風もまったく違うこのメンバーが打ち合わせもなく作品を持ち寄ったところ、実に濃い空間が出現した。 男組の筆頭・伴清一郎は「男が描く男といったら羅漢だろう!」と断言、『羅漢・龍が棲む漢(おとこ)』という作品を出品。頭上に世界を表す梵字をいただき両脇に日輪・月輪、下に金龍・銀龍を従えたなんとも豪快な羅漢さんを描いた。五十代代表平野俊一は「23 JUN,1979」の自画像と「12 SEP,2009」の自画像を並べ、この間の三十年をそれぞれに想い起こさせ、相撲にかける木村浩之は本場所に通い詰めてクロッキーをとった成果ともいえる勝負の瞬間の「明暗」を描き、同じ筋肉系でも奥津直道は男道の美学を華麗な「道行き」の意匠に託した。新参のコヤマイッセーは眠る男シリーズ「ウラオモテの時間」を描きながらなぜか父親が脳裏からはなれなかったらしい。 一方、女組・姐さん松谷千夏子は、女を描いて三十年のキャリアで「Drawing-Nude」を描き不動の姿勢をみせた。続く阿部清子も堂々の目力勝負、「まだしらない」少女の真摯な視線が見物衆を捉えて離さない。佛淵静子は震える感性としたたかなまでの確かな線で思春期の「はつなつ』を描く。初参加の中 千尋は、実は初の人物画挑戦。美人画が描いてみたいと清方・深水の道に踏み込んだ。「稽古仕度」は自身も日本舞踊を舞うお方だけに心憎いまでのディテール描写だ。 以上簡単に作風をご紹介したが、我が道をいく方ばかりの八方破れ感が今展の持ち味につき、まだまだやり足りない!とブラッシュアップを望む声も散見した。どこまでいくのか、座元としてはやや怖いような気もするが、招集した以上は毒をくらわば皿までの覚悟はやむをえまい。 さらに笛を吹いてこのメンバーと踊り続けてみようか。 | ||
![]() | ||
| 2010/06/7ー13 | ||
| 三谷綾子展ーParedeー | ||
| ー憧憬ーと名付けた初個展からはや二年。三谷綾子が今展では水彩の作品を世に問うてきた。前回は渾身の力みなぎる油絵作品を発表して「ここに我あり」と名乗りをあげたものだったが、その後地元秋田での展覧会を経て、水彩画にも新境地をひらいた。 Paredeパレードというテーマは、一列に並ぶ林檎の群れからイメージしたというが、80号から3号まで大小14点余りの作品はすべて林檎にちなむ作品で統一されている。 三谷綾子が住む秋田南部は青森や長野の並んで林檎の産地である。寒暖の差がその実にぎっしり詰まっているような凛冽とした味は忘れ難いものであるが、今展の三谷作品を見ていると、味覚とともに林檎を収穫する頃の蕭条とした気配や風の匂いまでよみがえってきて、「ノスタルジア」というタルコフスキーの映画まで思い出すことになった。そのエンディングに、現在いるローマの廃墟ともう帰る事の出来ない故郷ロシアの小屋が重なり、なんとも美しい心象の幻視が映像化されているのだが、三谷のダブルイメージの画面もまた写実を越えた深さを追求してやまない。 DMの作品「Parede」は林檎とその作業小屋のイメージを組み合わせた作品である。また「寂光」は林檎と作業小屋の入口のビニールを取り合わせた。絵画ではダブルイメージというが、俳句では異なる主題を取り合わせることを二物衝撃という。それぞれをある配慮のもとにぶつけた時、単体をこえた深さ、高みを得る効果がある。明治期、正岡子規は西洋絵画の「写生」から俳句にもそれを取り入れて新境地をひらいたが、映像でよく使われるオムニバスという手法はフランスのヌーベルバーグの監督が俳句の簡潔な言葉を取り合わせる事からヒントを得てはじめたと聞くと、洋の東西を問わず人間の新しい表現への意欲というものは凄いものだと思わずにいられない。 三谷綾子もまた、目の前にあるものを描くにとどまらずその奥にもう一つの世界を見たい人種であるようだ。「夢想する力」と名付けたいようなその意欲は、林檎の樹と小屋のイメージを重ね、その奥に営々と続く土地の記憶をも思わせる。だが、その筆さばきは軽快で透明感のある光に満たされている。北方の光というのは別格で、緯度のせいなのかものがクリアにみえる。写真家が朝と夕方のひかりがいいというが、三谷綾子の目はこの祝福されたようなひかりを感じる能力に優れていて画面に爽やかで豊かな詩情を与えているのだ。 久々の東京滞在であちこちの美術館を堪能し、泰西名画を見ては、あぁまた油絵が描きたい!とひとりごちる三谷綾子は、乾きが悪くて描けない冬の間水彩を描き、梅雨明けから炎天になる夏の間油絵に打ち込む二期作の画家である。今度はどんな収穫をみせてくれるのか、今はそれぞれに結婚して一子を得ている二人のお嬢さんがたと一緒に楽しみに待つこととしよう。 | ||
![]() | ||
| 2010/05/24-6/2 | ||
| 松谷千夏子展ー人・植物 | ||
| 二年ぶりに松谷千夏子が帰ってきた。2001年よりほぼ二年おきの個展も今展で五度目。華麗なモデルさんを得ていよいよ佳境の女性像に取り組んでいる。 個展に先駆けて開催された日本橋・高島屋の女性画家たちによるグループ展「グラマラス」にもメンバーとして参加した松谷千夏子だが、百戦錬磨の画家たちの間でも独特の存在感を示していた。 今展のテーマは「人・植物」。松谷のライフワークである茫漠とした瞳をもつ「人」が今展でも「植物」の作る空間のそこかしこに佇み、えも言われぬ視線を投げかけている。 近年は余白と線を意識して、和紙の地を残すような仕事にチャレンジしているが、このたびの植物シリーズ「松と蘇鉄」では見事にその挑戦が効を奏し、抑制の利いた空間に引かれた水平の波涛の線が空と地に奥行きを与えるまで広がりをみせた。初めて人物が入らない風景を描いた6年前の作品も勇気のたまものだったが、さらに完成度が高まり松の幹、葉の表現などこれ以上足すところも引くところもないぎりぎりの感覚を伝えている。 また人物と花を同時に描いた作品「牡丹花」には金箔が空間をつくり、軽快な豪奢さというテイストを矛盾なくあらわしてあらたな人物像を作り上げたことが今展の見どころのひとつだった。 いつも乾いた風が吹くようだった女性のたたずまいも、箔の金属の輝きを与えられて意思的ですらある。何も映していないと思われた瞳に、挑発するような光が与えられている。蜃気楼のように実体の定かでない「なにか」を投げかけて、美しい頽廃の夢に誘うようだ。 まだ、人物を描く日本画家も少なかった頃から、創画会や個展で、画面の4分の3が顔というような独特の女性像を発表してきた画家が30年かけて今まさに佳境にいる。時代がようやく追いついて来たのだ。彼女が敢えて描き込まない瞳に、これからどんなものが映り、いかなるものが宿るのかまだまだ目が離せない。松谷千夏子のシャープな感性がとらえる、時代という「蜃気楼」をこれら女性像が体現しているように思えるのである。 | ||
![]() | ||
| 2010/05/14-23 | ||
| 小松謙一・藤森京子展ーアオゾラとガラス3 | ||
| 三度目になるアオゾラとガラス展が今日から。 年に一度この季節に帰ってくる渡り鳥ではないが、旅ガラスと洒落たのは去年。今年の「アオゾラとガラス」旅団はどんな旅のかけらを私たちに見せてくれるのか。5月の青空がひろがる中での展覧会をご紹介する。 そもそも日本画の小松謙一がガラス工芸の藤森京子とコラボレーションをするきっかけとなったのは、絵画の平面性を立体化できないかという一つのプランからだった。特に小松の作品は男の羽織のように、表は極めて渋いが裏には派手な装飾が施してある。この裏側も見せたいとかねがね思っていたという。教えにいっていた多摩美大の生涯教育の教室で、ここにかかわるスタッフだった工芸専攻の藤森にこのプランを相談したところ、思った以上に日本画とガラスの相性がよかったらしい。次々とこのユニットによる作品化が始まった。何回か小松の個展で実験的に発表したあと、三年前コラボユニットとしてデビュー。以後毎年この季節に画廊でその軌跡を見せてくれている。 違う素材とのマッチングで一番難しいのは、もともとの作品がもっている質を落とさないでそれ以上のものを作り出さなければならないことだろう。小松の一見渋い作品の裏側にある豊かなカラリストとしての資質は、ガラスという素材を得ていきいきと躍動し始めたし、藤森の精巧でクールな研磨とカットは、小松の作品を取り入れることで有機的な質感を手に入れた。 前回までの作品たちがそれぞれの異質さを喜び消化する出会いのマリアージュがもたらしたものとするならば、今展ではそれを経て自身の作品に得たものを還元したといえよう。 小松謙一は大きな骨組みの桜の古木二点をほぼ対角に配置し、青と茜の空で彩った。水墨の教室で教鞭をとった成果か、その墨の力は抜群に進化し堂々としてしかも自在だ。花が咲いていないのに花を感じる、というのはその古木に生命が宿っているからだろう。まわりの空気も奥行きも気持ちよく抜けていて、これが男の墨だとその木がいう。一方、鉄の額におさまった小品二点は遠い記憶を呼び覚まされるロマンティックな作品。鉄の額のせいなのか、鉄の匂いが呼び起こす記憶と重なる。片や横浜のガス灯通り、片や線路、、、やはり鉄?か。絵肌を鋭く抉って引いた線が、心のどこかの記憶も抉る。強い表現が違和感なく抒情へと収斂していくのも力量だ。墨の世界のダイナミックな展開とひと味違う小松謙一のまだ終わらない青春がほの見える。 一方、藤森京子は「刻」というテーマで煉瓦状に積み上げたガラスを炉で溶かし、時が堆積したようなオブジェを制作した。これが遺跡から発掘されてもおかしくないような、しかも何につかったか見当もつかない摩訶不思議なもの。金彩が施され、時折り時間が削ったと思われるような空洞もあるこれらは、もちろん藤森の入念な研磨でそれとわからないように仕上げてある。板ガラスを溶かしそれ自身の重みで凹んだ形を活かしながら作った盃などはオブジェでありながら身近において楽しめるすぐれものだ。細かくカットしたガラスを溶かし固めることで遺跡の石組みを思わせるという、小さなものから壮大なスケールへの転換は藤森の優れたイメージ力の賜物。この力はまだまだ埋蔵されているとみた。 このようにコラボによって、それぞれが自身のもつ世界を深め、また新たに展開してきたことが今展のみどころだ。コラボ作品は今回さらに自然に一体化して、それぞれの見どころ仕事のしどころの呼吸が実に合っている。日本画とガラスをつなぐ溶剤としての鉄作品も見応えのあるものに育ってきた。今後はこれらをどう進化させ、どんなものを取り込んでいくかが課題になってくる。 来年の「アオゾラとガラス」の旅団が何をお土産にもって帰ってくるのか、楽しみに待つ事としよう。 | ||
![]() | ||
| 2010/05/1 | ||
| 佳き風茶会ー越畑喜代美ふすま絵展 | ||
| 越畑喜代美がふすま絵が描きたいという。それも柴田自宅の八畳間の三面をイメージしたらしい。それでは、と画廊が休みのゴールデンウィークを利用して人数限定のお茶会展を開催した。 何せ閑静な住宅地の合間にある苫屋である。以下、ご招待できなかった皆様にお詫びを込めて顛末記をご披露する。まず招待状の文面はかくのごとし。 青葉の候 皆様には益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。さて、このたび 拙宅の襖に越畑喜代美が絵を描き粗茶粗餐ながら一席をもってはつ夏に献じたく左記のとおり 茶会を催すことといたしました。 かねて懇意の皆様には ご存知のとおり茶会といっても 勝手流と自称するかなり怪しげな仕度でございます。昭和二十三年に建てられたつつましい住いの八畳の襖から 越畑喜代美がどのような「佳風」を送ってくれるのか お招きする皆様とともに楽しみに待つ事といたしたくご案内申し上げます。 平成二十二年 卯月吉日 阿佐ヶ谷・遠見亭柴田悦子謹白 佳い風や 遠見の稲のすこやかに 池田澄子 自宅八畳間に床の間を置き、季節はちと早いが風炉を設える。ほぼ三日徹夜で張り替えたふすまには、あわあわと咲く薄墨桜。なにせ極薄な墨なので一見何も描いてないように見えるのがミソ。昭和23年の正しい民家には五間の縁側がある。これも二日徹夜で張り替えた障子は白く五月の陽光を映すが、座敷の奥には届かない。この薄明かりでうすうすの水墨が色を出してくるのを待つのに30分はかかると踏んだ。 かかるシチュエーションを自然に演出するには、なんちゃってでもいいから茶会を催すしかない。お義理にでも黙って座るうちに、あぶり出しのように絵が浮かび上がってくる筈、と思ったのが間違いの始まりだった。 自宅茶会の最初の仕事はまず徹底的な掃除だ。武井展のため画廊を動けない柴田に変わってこの任についた牧ねえねえ、獅子奮迅の活躍も当日最初のお客さまが到着するまで続いた。まだぼろぼろのトレーナー姿で客入れをする。懐石の籠盛りはご存知・荒木町「夜市」の影丸師匠のお願いして一献差し上げている隙に用意の着物に着替える。幸い最初の御客人は、大体の見当をつけて来てくれている中野の「路傍」一行。爽やかな五月の風に吹かれながら縁側でのんびり庭を見物している。 何事もなかったように遠見亭主人に変身した柴田悦子、庭先から座敷に案内しなにやら怪しいお手前でまずは一服。怪しい手つきをごまかすにはトークしかない。あれやこれや正客とやりとりしながら絵が暗がりから浮かび上がるのを待つ。よくしたもので越畑の墨はこの季節には若葉の山に化ける。桜山に風が吹いて青々とした葉を茂らせるのである。それを一服の夢としておもてなしすることが今回の趣旨なのだった。次の席のお客さまと入れ替わる一時、いいお顔で帰られる方々をお見送りしながら、この暴挙が少し報われたと感じたのは私だけではあるまい。 二日目には二階の座敷で織田梓による煎茶の点前もあり、その夜には沖縄の島唄の神様といわれる大城美佐子先生ご一行が座敷で最高のパフォーマンスを披露して、居合わせた方々を感動させた。マイクを通さない大城先生の絹糸声を聞けた人はそう多くはない筈である。主茶碗に川喜田半泥子の石爆ぜ茶碗を提供してくれた吉田氏も大感激で、京舞いの先代井上八千代を呼んだ座敷に匹敵するとまでいって下さった。 亭主・画家双方とも余裕がないなかの遊びは、なんとも恥ずかしいような次第だが、手弁当で協力下さった牧ねえねえ、影丸さん、大城先生、吉田さんのおかげで誰にも真似できない「なんちゃって茶会」になったことに感謝。 このところめっきり太った私の帯が回らないのにいらだった牧ねえねえが、普段の温顔を忘れて思わず「このでぶがぁ!」とののしって以来、うちうちで「柴田・コノデブガー・悦子」と呼ばれる羽目になったことだけが誤算だった。 最後に「佳き風茶会」の簡単な会記を記す。 佳き風茶会々記/越畑喜代美襖絵披露目記念/お正客 初日1 関本芳明 初日2 小黒良成 2日1 林田裕介 2日2 本江邦夫 3日1 稲川均 3日2 仲山計介 主茶碗 川喜田半泥子 石爆ぜ茶碗 銘 薮礼歌舞令(やぶれかぶれ)/ 掛け物 越畑喜代美 あけび花図 梨花観月図/ 風炉先屏風 越畑喜代美 野路図/ 花入 美崎光邦 彩泥壷 /茶入れ 青山昭三 竹根棗 銘 根々竹(こんこんちき)/茶杓 青山昭三 銘 棚牡丹(たなぼたん)/ 香合 川喜田半泥子 銘 赤玉 /置物 高村光雲 鼠銅印 篆刻 足立疇邨 | ||
![]() | ||
| 2010/04/20-28 | ||
| 武井好之展ー島紀行V | ||
| 武井好之の島紀行Vが始まった。武井の沖縄か、沖縄の武井かといわれるほどこの地に打ち込んで七年。当画廊から出発した島紀行展は沖縄での展覧会の往還を含めるとほぼ毎年開催されている。 出会いの衝撃をそのままに描いた島紀行・初回展「夏至南風カージーベー」では島を渡る風にたくして環礁や島の風俗などをみずみずしい感性で表現し、見る人を驚かせたものだった。その後、島の人々を連続的に描くシリーズや沖縄百景シリーズなど次々と意欲作を発表している武井が本展では初心の感動に寄り添うように環礁シリーズに挑んできた。 七年の歳月が武井好之に何を与えたのか、東京沖縄の往還を通して出会ったものの集積がここに昇華されているといってもよい力のこもった作品群だ。画廊の横一面に広がる景は伊是名の海岸線。陸地部分は省略して珊瑚礁の広がる海岸から海を俯瞰した構図は大胆で、今までにない強いインパクトを絵に与えている。非常に繊細で克明に海岸線の構造を追いながら、抽象画のような印象をもたらすこの作品で武井は新境地を拓いた。 月探査機「かぐや」から見た地球が美しいように、地球が水で覆われた惑星であるということをしるには距離が必要だ。セスナ上からこの視点を得た武井は、これをどう自分の表現で描くかを課題としてきた。美しいものをそのまま写しても感動までは伝わらない。自分のどこでどう表現するか、画家としてはここが一番肝要な部分である。 武井好之は海岸線の複雑な構造と波形をリアルに追いかけることでーいわば天然の地形の抽象性を利用してーある人には具象的なものに見え、ある人には抽象的なものに見えるスタイルを画面のなかに作り上げた。作品Izenaには明確にその意図が感じられ、ストレートにその造形の不可思議さに引き込まれるが、長く見ていると抽象に見える波形の上に風が流れ、下には珊瑚礁が隠されている様相が次第にあきらかになってくるのである。大げさにいえば具象のなかに抽象がかくれ、抽象のなかに具象がみえる、というなにか哲学的な摂理をこの美しい環礁にみた驚きが感じられる画面といえばいいのか。 この作品をはじめ、Ukibaru など上空から雲、陸地、海岸、珊瑚礁、海底と順に視線を奥に送ると、薄い水の膜が地表を覆っているに過ぎないこの星の、奇跡的な美しさが肩の力を抜いた柔らかなタッチで描かれていて見飽きる事がない。 この海の青さを表現するのに、日本画の絵具だけでは無理だと判断し、ありとあらゆる試行をしたのだという。まさしく絵にも描けない沖縄の海の青。ヨーロッパでも青の絵具は中世から大変貴重なものだったときく。粉っぽく沈みがちな岩絵具では到底あらわせないこの色をどう出すかも今展の命題だった。水や空気を描くというのは大変な力量がいる仕事だが、この色をさけて島は描けない。無事、快晴の沖縄の海となった次第は画像を見て下さった方には納得の沙汰ではなかろうか。 はやくも武井好之には那覇・りうぼう夏の陣が待ち受けている。 | ||
![]() | ||
| 2010/04/12 | ||
| 平野俊一展in the garden | ||
| 平野俊一の満開の桜が画廊いっぱいに広がった。今年は花冷えのことが多く爛漫の桜もどこか白々と見えたが、八重桜の咲き始めた画廊の前の通りに呼応するように平野桜はピンクに輝いて来る人たちを喜ばせている。 2002年から定期的に個展発表するようになった平野は、雨や雲など気象をテーマに一時も同じ姿を留めない空気を描いて来た。近年は身の回りに咲く花を取材し、輪郭の不確かな「存在」としての花を、丹念に集めた画像と自身の記憶により再現している。 ある時眼鏡を外して見た花が、輪郭やディティールを失って不思議なリアリティのある「存在」として立ち上がってきたという。その時の驚きそのままに今わたしたちの前にある「さくら」は、見る人の「さくら」の記憶とも繋がって見事に「あぁ桜ってこうだよね」と思わせてくれるのである。 世の中に桜の名画は数々あるけれど、平野桜は名もない分だけ、各自がそれぞれの心に秘めている「さくら」の記憶を引き出してその気分を再体験できる希有な「さくら」なのである。 大振りな花の下で溢れる春の気分を満喫して花見の宴を行う。日本人ならば物心つく頃からこのどこか浮かれた、しかしどこか儚い季節を体験してくるであろう。平安の歌人も室町の隠者も天下人も江戸の熊さんも、同じ花と季節に酔いしれた。こんな国が他にあるだろうかと毎年の巡りの度に思う。 いささか話はシリアスになるが、特攻隊の方の辞世とされる「さくら散る 残るさくらも 散るさくら」という句にあらわれているような死生観が華やかな宴の背後にあればこそ、このひとときを全身全霊で楽しもうとするのではないか。この世のものとは思われぬような「花」が一斉に咲いて一斉に散る。念仏のように掲句を口ずさみながらさくらを見ていると、花びら一枚一枚と命が重なって人の巡りを思わずにいられない。 そしてまた、お約束のようにソメイヨシノが散ると八重さくらが咲き出す。これはぽってりと妖艶な遅咲きで、宴果てた人の心にぽっとまた灯を点すのである。この見事な連携は一体誰が考えたのであろうか。 平野俊一は今展でこの桜花に深く分け入り、雲のように捉えどころのない茫洋とした花の有り様と、まさに今朝ひらいた花弁のみずみずしさを同じ画面に共存させるという離れ業をしてのけた。たしかに人間の目は花の細部もかたまりも同時に認識するものだが、表現する段になるとどちらかに偏って矛盾のないように整理しがちだ。だが、平野は目に見えるままある部分は詳細に、ある部分はおおまかに、見事な緩急をつけてこれを表現した。平面を3Dで現したようなものである。おおまかに見せながら画面のすみずみまで配慮がされている、この視点の複雑化は平野の独壇場ともいえるだろう。 画家に専念するまえ平野は建築のパースを描くプロとして細かい図面と取り組んでいた。その反動ともいえる輪郭を失った描写であったのだが、そのなかにあっても微妙な神経は潜んでいて、大画面の遠近のバランスにその培った実力をいかんなく発揮している。 一見、なんでもないようでいて何故か引き込まれる理由は、この矛盾をみせないバランスのよさによる。さらにいえばそれ以上に、この花たちの美しい夢のような有りようが私たちをして「春の気分」に浸らしめるのである。 この季節にふさわしい、まさしく豪気なIn the gardenであった。 | ||
![]() | ||
| 2010/04/03-11 | ||
| 松崎和実展ー箔画V | ||
| 三度目の松崎和実展が始まった。「箔画」とは松崎の造語で、和紙に張った箔に描画し、それを切り抜いてアクリルに挿み額装上に浮かせて展示する形式をいう。日本画とも切り絵ともガラス絵とも違う、彼独特の技法に「箔絵」と名付けて発表しはじめて五年になる。 1969年宮崎生まれの松崎は、上京とともに前衛水墨画集団の「IZAM-Internatational Sumi Art Movement」に参加、2004年まで水墨画の世界で旺盛な活動を展開していた。その活動に一区切りつけ独自の方向に向かうきっかけになったのは、ある藩の江戸時代の魚類図譜を見る機会を得たことという。精緻な図譜に残された魚たちに魅了された松崎は、自ら編み出した技法でこれらに迫る現代の「魚類図譜」を描こうと思い立った。以来、ライフワークと位置づけて描いた「魚類」は今展で#186を数える。 2006年小林米子との二人展以降当画廊で毎年個展を開催し、その都度新たな出会いを広めて東京美術倶楽部「正札会」や、高島屋美術部企画の全国巡回「美術水族館」出品などで、その仕事を評価されてきた。2009年には故郷である宮崎の都城市立美術館で念願の個展を開催、初めて郷里の人々にお披露目するなど、着実にその努力が実を結びつつある。 初めて彼の仕事をみた人々は一様に目を丸くするのは、そのあまりの真にせまるリアリティによるからだ。描いた箔を切ってアクリルに挟むというのも常識を覆すが、箔を利用してここまで鱗を描いた画家がいただろうか。江戸期の図譜の克明さに驚いたという松崎が、それを上回るものを描こうとした時、発想したのは今までにない意表をつく技法だった。描くのは魚体だけではない。同時に物理的な魚影をそこに生じさせることで、あたかも水中にいるが如き絵画空間をつくるのだ。けっしてアカデミズムには発想できないこの方法によって、松崎は見る人を絵空事から水面へといざなう。 三度目の個展である今展ではますます腕に磨きがかかり、水深の深いところの魚には番手の粗い岩絵具の黒を、浅いところの魚には細かい水色をと使い分け楽しいコントラストを作っている。また特筆すべきは作品「頂点眼」の尾びれの描写だろう。この作品は写生によりながら、写生を離れた世界を醸し出している。古閑の格調があるとみたが如何か。 図譜の細密からまたひとつ世界を広げ、ゆったりとまた無心に水中にある魚と心を通わせ閑雅なひとときに遊ぶというこの境地に、松崎和実の新しい可能性を見いだしたのは私だけではあるまい。 | ||
- Topics
Board -