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| 2010/03/01−10 | ||
| 押元一敏展 | ||
| 2000年の展覧会以来、十年ぶりの展覧会が今日から。 押元一敏(おしもとかずとし)は1970年、千葉県生まれ。1995年に東京芸術大学美術学部デザイン科を卒業し、'97年には大学院修士過程を修了、2000年に博士後期課程美術専攻満期退学した。その後2001年から'04年まで母校の非常勤講師、'04年から'07年まで常勤の助手をつとめ、現在は非常勤講師である。 '95年の学部卒業時には優秀な学生に贈られる安宅賞を受賞、同年から個展やグループ展など旺盛な活躍を始め、修了制作にはデザイン賞、'98年には三渓日本画賞展大賞を受賞するなど、華やかな存在として知られている。 東京芸大のデザイン科に在籍していた頃はアクリルと岩絵具の併用で制作していたが、徐々に膠の魅力に惹かれ和紙に岩絵具という日本画の手法を選んで今に至る。 もともと琳派などは意匠的な発想から生まれたものだけに、デザインと日本画は切っても切れない関係にあるが、芸大のデザイン科に日本画を描く学生が多くなったのは、押元が在籍当時に日本画家の中島千波先生が赴任した頃からと記憶する。洋画家の大藪雅孝先生と日本画の中島千波先生という優れた画家のもとで、助手や講師を勤める経験が、押元の作風を多様なものにしてきたのだろう。初期の人物や心象風景に留まらず、花鳥や静物などにも果敢に挑んできた。 近年は日本の仏教美術や世界の宗教美術の世界へと分け入り、そのフォルムからインスパイアされた作品を多く描いている。特にロマネスク美術の彫刻、ビザンチン様式のモザイク画、イコンに強い興味を示し、その精神性を学びつつ自己の表現へ昇華すべくさまざまな試みに挑んでいる。 今展もその一環で、「天使像」のトルソを連作で描いた。トルソとはご存じのように頭や手足がない胴体のかたち。天使には普通「天使の輪」がつきものだから、随分思い切った省略をほどこしたもの。前展では、大天使ミカエルなどその形象も意味も明確にわかるものを描いたが、描いているうちにどんどん抽象化が進み究極のトルソにたどり着いたのだそうだ。 まるで今日発掘された遺跡のように、わずかな光をまとうだけでそこにあるものたち。絵具を盛り上げ、削って線刻し、また色をのせる。何度も繰り返されたこの行為によって、何世紀もの時間によって風化したような印象の絵肌になった。 彫刻をつくるつもりになって描いた、という。十枚の連作も少しずつ色も形も変え、画面を刻んだ。天使の象徴とした「羽根」も形を最初から決めずにゆるやかに描き進めた。人体に羽根という形象は洋の東西を問わず、人間と神界をつなぎ、自由に往来する象徴として神話には必ず登場する。それを「ぎりぎりまで削ぎ落としたフォルム』の一部として描いたのには、羽根の象徴としてのオーラに思いを託すという意図によるのだろう。 画家としてこれから飛躍する時期を迎え、まず自身の内在する志向をつきつめたいとこれらのトルソに向かった押元一敏は、制作のなかで静かに「自分の天使」像を見つめ続け、抽象一歩手前までシェイプする作業から一番フィットする自分の色と形を見つけた。 あらためて聞けば山口長男やマーク・ロスコなどの仕事からも刺激を受けるのだとか。柔らかく全てを受け止め、自分の心にかなうものを時間をかけて選び、ためらいなく描く―おだやかな押元の人柄を思う時、その底にここまで何かを希求する強さがあるとは驚きだが、だからこそ順風満帆のこの時期にここまで冒険をするのだろう。 この仕事の舞台として選んでもらったことをうれしく思う次第である。 | ||
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| 2010/02/15-20 | ||
| からりてん発足! | ||
| 川村綾子/佐藤はる香/寺本有加里/藤林麻美の四人は2007年多摩美大日本画科卒の同期生である。そのメンバーでグループ展をと「からりてん」を立ち上げた。 そもそものご縁はメンバーの藤林が学部を卒業した翌年の2008年に当画廊で二人展「蘖(ひこばえ)」を開催したことから。その後、大学院を卒業した他の三人と計り新たなグループを結成したという次第。「蘖(ひこばえ)」もいいネーミングだったが、「からり」展も音の転がる感じとメンバーの明るいさわやかな印象が重なっていい具合だ。 上の画像順にご紹介していく。 羊の作品を描いた藤林麻美(ふじばやし・あさみ)は1984年山口生まれ 2007年の日本画科の学部を卒業後前述のように2008年代島千鶴と二人展を開催している。スモーキーな絵肌で日常のゆるやかな景色や気配を写し取っている。前展では羊の形をした雲が街に迫りつつあるいささかシュールな作品を描いたが、今展の羊は「何かを知っている」らしい。羊のお尻のフリンジのように固まった毛を丹念に写して、羊という動物のもつ不思議な存在感を表現している。 川村綾子(かわむら・あやこ)は1983年神奈川生まれ。2009年 多摩美術大学大学院修了 在学中の2006年と2007年に銀座でグループ展開催。また2005年に第15回臥龍桜日本画大賞展、第5回佐藤太清賞公募美術展に入選(’06も)2006年は第1回丹波市展にも入選するなど旺盛な活動をしている。予備校の恩師によると、その頃から蛍光色系の独特の色感を持っていたらしく今展でもその強烈な色使いと、生活感のある素材が異色を放っていた。洗濯はさみや洗剤のキャップ、ハンガーな身近なものたちを使って、あたかも抽象であるかのような形象にする感覚が新しい。普通のものから普通でないものに転化していくビビットな感覚は特筆すべき。 佐藤はる香(さとうはるか)は1982年神奈川生まれ 川村と同様2009年の院卒。やはり在学中の2006年に市立橘学苑の音楽堂で初個展。また同年に銀座で五人のグループ展を。2008年には多摩美の各学科合同展示・批評会参加、またグループ展も。公募は2006年に第17回我龍桜日本画大賞展優秀賞受賞(同2007、2008入選)第6回佐藤太清賞公募美術展など、これも華々しい。作風は軽やかでみずみずしい。街の中の色々な群像を、さらりとスケッチ風に描くが、その削り取ったような線が実に洒落ている。全部描かずアバウトなラインだけで後は見る人にまかせるようなワザが、彼女の才というものだ。余韻にさらりとした詩情があると見たのは私だけではないだろう。 最後になったが、寺本有加里(てらもとゆかり)は1983年愛知生まれで今も在住。2009年院卒後2006年に佐藤はる香などと5人展。2009年に銀座と新宿、地元名古屋でグループ展。公募は2006年第17回我龍桜日本画大賞展入選(2009年も)2008年には神奈川県美術展に出品している。今展では銀箔の上に転写した街(覚王山らしい)をメインに、クールで重層的なイメージを描きひときわ注目されていた。箔という伝統的な素材に硫黄を塗りアイロンで焼くことは下仕事としては珍しくないが、その技法で版画のように風景を浮かび出させるというのは珍しい。素材と格闘し絵具とはまた違うテクスチャーを得たのだろう。茫漠とした都市が箔の上に蜃気楼のように浮かぶ様子は悪くない。本来の持ち味はピンクとグリーンのないまぜになったあまやかさの方にあるのかもしれないが、金属の質感を得てまた画想が広がるのが楽しみだ。 以上簡単にご紹介してみたが、グループ展としてはそれぞれを触発できそうな顔ぶれで楽しい。持ち味を伸ばしつつ今後も精進してほしいと心から願っている。 | ||
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| 2010/02/01-10 | ||
| 第二回男の墨・女の墨展 | ||
| 男の墨・女の墨二回展が始まった。昨年の初回にどんなことを書いたか念のため調べたら、何やらもっともらしい事が書いてある。重複する事柄なので初心を以下に記してみることにした Gender series と銘打っての初回、「男の墨・女の墨」展を開催した。そもそも「墨」を使う画家が多いなかに、男と女で墨に対する姿勢が違うと感じたことが始まりだった。当画廊の扱い画家たちで、一度その比較が出来ないかと声をかけてみた。 Genderとは簡単にいえば社会的な意味での性差をいう。ここでは「墨」という書画にとってなくてはならない素材を対象に「男の墨」と「女の墨」と違いをみてもらった。 十数人の作品が並ぶため、男性作品の壁は黒くした。そのためもあろうが作品たちは厳しく緊張感に満ちたものに思われ、一方女性作家たちの作品はとらわれのない自由なものと感じられたことだった。 もともと中国の書画に影響を受けた日本の「墨」作品は長い時間の間に独自の発展と遂げて来た。唐渡りのものを取り込み手本としながら、宗教や文学、思想と軌を一にして進化し、固有の美意識を披瀝するものとして一段格の高い扱いを受けてきたように思う。 一枚の書画に世界観、宇宙観が込められている、というのは勿論理想とするところだが、汲み取るべき美意識は描き手や時代とともにその衣を変える。 維新以降、また戦後以降の前衛の試みはほとんど男性画家たちの仕事である。「墨」もどちらかといえば男の嗜み。 ところが、今や歴史に例のないほど女性画家たちが活躍している時代だ。「をとこのすなる」墨絵だって、ほとんどタブーを考えることなく果敢に挑戦。世界観を考える前に、描きたいものを描きたい、という欲求に従って使っている。下手も承知のコンコンチキ…といえば少し大げさだが、墨という大きな素材を自分の作品に必要な一つの材料として見ている、というところか。 一方、これまでの歴史を背負う男性画家はそうはいかない。入念に腕を磨いたうえ作品に世界観を構築していく。また世間の目も厳しい。へなちょこな墨を描いたら笑われるのである。力が入らない筈はない。 このような社会的な違いと使い方の差はあるけれど、「墨」は画家を魅了してやまない。また今回の作品はどれも私が心のなかで「名品」と名付けている品々。敢えていうまでもないがそれぞれの画家が、「墨」と格闘してできた作品たちである。それぞれの性差のなかに、自分しか描けないものを描きたいと念じた画家の自画像と思って展示させていただいた。 画家それぞれの「墨」を出会わせる機会は、団体展でもない限りなかなかないもの。「墨」という共通項のもとに年齢や性別を超えた研鑽の場があればと思い、今展を立ち上げた次第である。 いかがであろうか。趣旨は前回と一緒だが、今展では「女の墨」のボリュームをアップし、新恵美佐子・林典子の両人にお声をかけた。またニューヨークで発表した浅見貴子の作品も展示し赤い壁面にかけてみた。その結果ひとつの面白い現象がわかった。男の墨は黒く、女の墨は白い、ということである。同じ墨といっても、墨の部分と紙の部分の比率に差がある。今展の偶然の所産であるのか、その空間意識の違いなのか、一概にはいえないが、壁面を赤く覆ったことでその違いが見えて来た事が興味深かった。今展では男組に、中国の水墨画の俊才・朱海慶に加わってもらったことで深みが増した。来年は新作を揃えて、さらに鎬(しのぎ)を削ってもらおうと思っている。 | ||
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| 2010/01/20−26 | ||
| 直野恵子展ー9回目の個展 | ||
| 直野恵子のこつこつ重ねた歩みも今年で九回目を迎えた。おー九回目か、と改めて直野恵子の愚直ともいうべき努力を思う。 1997年の開廊時にはまだ女子美大の学生だった彼女が、2000年の「文月展」でグループ展デビュー。翌年から個展の道中となった。初個展の時には、緊張のあまり顔もあげられず具合が悪くなって帰ってしまったことも。 真剣なその制作姿勢は今もかわることなく、悩みつつもその歩を進めている。画廊の看板の字を揮毫して下さった工藤甲人先生のアトリエは「蝸牛居」といい、そのいわれを尋ねたところ42歳でようやく上京し画家として立った遅蒔きの自分に、蝸牛の歩みをなぞらえ漢詩「百尺竿頭進一歩」の「遅く見えてもいつの間にか百尺を渡っている」という気概を託したのだという。 直野恵子を思うとき、いつもこの先生の言葉が浮かんでくるのは何故だろう。おそらく迎合ということをしらず、ひたすら自分の心を恃んでその求めるままに歩む彼女の姿を、ただただ見守るしかないからだろう。そのかたくなな殻も内部の柔らかい感性も全てが絵に向けて集約されていることにある時はあきれ、ある時は感心してきた。 絵を描かずにはいられないこのモチベーションは絵描きには不可欠なものだが、それが外部に理解されるまでの時差はそれぞれだ。独自性と普遍性を同時に成り立たせることは実に難しい。 だが、直野が拘る世界観と詩情がひとりよがりにならず、見る人の心に届くまでこの歩はたゆまず進むのだと思う。そして九(十)年一日の如くの試行錯誤が今、少し道が拓けたようにみえる。今まで自分だけに向かっていた心が、外に開かれたような印象の絵になったのだ。 静かな霧が立ちこめる冬の情景に託した心象は具象にも抽象にも思え、美しい余情をたたえる。このなめらかで清い気配は、俗を嫌ってはいるが人を拒否してはいない。自分のエゴを消し去って無心に絵に向かった清々しさが人を誘い込むのだろう。 この一連の作品が九年目の成果というものだろう。そしてこの手応えをどう次の一作に伝えるか、いよいよ楽しみな十年目となって来た。 | ||
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| 2010/01/10-17 | ||
| 堀文子教室同窓展プラス新年会 | ||
| 第四回堀文子教室同窓展プラス新年会が今年も。年明け一番に堀文子先生をお迎えし、その講評を受けるという背筋が伸びるような時間をもてるのはなんと幸せな事だろう。 今年のDMに先生が寄せてくれた言葉は以下のようなものだった。 「同窓展も年始の恒例となり4回目と聞き、またあたふたと時の早さに驚いています。私は相変わらず三途の川を行ったり来たりしていますが、皆さんの一年の成果、あかしを期待し拝見できることを楽しみにしています。」 齢91才にして毎日感動を新たに制作に打ち込む先生に、一年のあかしを期待する、といわれると突然身がすくむ。一年一年を、いや一日一日を濃密に過ごされているに違いない先生の時間とわれわれの時間に物理的な違いはないが、その差は歴然としている。 その貴重な時間を惜まず一人一人の作品と対峙してくれた先生にまず感謝したい。 さて、去年はエスパーのように絵を見ただけでその人に何かあったのを察した堀先生。今年も絵を見ながら、その作者の人生に分け入って一人一人に声をかけて下さった。長らく絵から離れていて今年初めて出品した方も有名な画家になった方も一列に並び、先生の前では二十歳の小僧・小娘に戻る。昭和50年卒の一期生から昭和62年卒の五期生まで約20年、多摩美大で教えていらした頃の先生はちょうど今の一期生の年頃。 たまたま長年先生を撮り続けていらした方の写真展が近くであり拝見する機会を得たが、当時から今に至るまで凛とした印象は変わらない。軽井沢の雪原で一人スケッチブックを手に何かを見つめる先生の眼差しは徹頭徹尾孤独だ。この道しかない、と我々に示される道ははるか厳しいものだが、巡り会ったものの心に深く刻まれていく。 たとえばお酒の出し方ひとつにも堀先生流の流儀がある。いわずもがなのその心配りを心配りと思わせぬ天衣無縫さこそ「品」というものだろう。不肖の教え子の一人として真似はできないまでも、その先生の姿を心に留めておきたい。 その後の新年会では、三々五々自分が覚えている先生の一言を披露し、おおいにもりあがった事だった。 | ||
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| 2009/12/21-26 | ||
| クリスマスアートフェア | ||
| 初めてのクリスマスアートフェアが今日から。銀座・京橋の42画廊が12月18日から25日までの期間一斉にアートフェアを、というイベント。ギャラリーツアーのガイドさんもいて、初めての参加者を引率して来て下さるとの事で、画廊も盛り沢山の布陣で。 まず入口でお出迎えは平野俊一のラブリーな薔薇。そして翡翠のような瞳をもつ山田りえの猫とその対角線に、まだうら若いキュートな白井弓の猫が。 台には暖かい色をたたえた牛尾卓巳のマフラーと長谷川裕子のきかん気な人形、おなじみ越畑喜代美と織田梓は縦長の画面を揃ってならべ、コーナーには中川雅登のクリスマスローズが禀として控える。 対面の壁には麒麟の人気ミニアチュールの花たちと黒田さかえのインパクトあるカメリア、お菓子の残像をとらえた手塚葉子、お菓子そのものをリアルに描いた平野俊一と華やかな彩りがきらめく。 そして正面には、個展を終えたばかりの木村浩之の関取たちが全てを受け止めて堂々と鎮座する。 その合間を福留鉄夫による針金の立体作品が浮遊し、まさに画廊自体をクリスマスツリーに見立てた満艦飾の展示となった。 クリスマスシーズンを迎えた銀座は深夜までさんざめくが、画廊もまたいろんな作品と出会いたい人々を迎え、今年最後のイベントにふさわしい週間となった。 このにぎわいに惹かれてシカゴからのお客人も引き寄せられるようにいらして、作品をお求め下さったことをご報告しておこう。 | ||
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| 2009/12/14-20 | ||
| 木村浩之展 | ||
| 待望の木村浩之展が始まった。年末の九州場所が終わって沖縄巡業を経て帰ってくる親方連を迎える時期にということでこの期間に。満を持した画家の「木村山」を待ち構えた体重だけは貫禄の「柴田部屋親方」。 モデルにお願いした元若駿河関と阿武松(おうのまつ)部屋の親方も木村浩之のために駆けつけてくれ、一気に画廊の空気は晴れがましいものになった。 よく「ハレ」と「ケ」というが、「ハレ」の場である本場所中にも「ケ」の時である朝稽古にも、木村はスケッチブックをもって日参し力士たちの姿を写して来た。一瞬も気を抜けない力士たちの動きを追い、ふでを走らせる。毎日を一期一会の機会と思い、その瞬間を積み重ねる作業が木村の作品にリアリティを与えている。 年間百番を越える取り組みに、一つとして同じ展開はない、と木村はいう。手に汗をにぎり、次の瞬間を待つ。目は土俵を追い、手はスケッチブックのうえを走らせながらつかんだものがそのまま絵になる訳ではない。多分何千枚とあるスケッチから「この瞬間」と思える時を描くのだ。 木村浩之の描く「相撲」は普通のスポーツとは違う。木村は力びとの乾坤一擲に画想を得て、紙のうえにその神聖な営みを構築し密度の濃い磁場をつくるー木村の目と手を通して描かれた「伝統」は、いきいきと脈打ち、熱気をおびた「命」として立ち上がってくる。 浮世絵以来、この魅力的な素材に向き合おうという画家は絶えてなかったといっていい中、木村は果敢に挑み道を拓こうとしている。単なる肖像画でなく、血の通った力士の生きる場を。だからこそこの伝統的なるものを描いてなお新しい感覚を伝えるのであろう。 木村がタイトルに使う「発揮揚々」という言葉は行司のおくり出す「ハッキヨーイ」という発声とともに「ことだま」としてよみがえって、千年も繰り返されてきた「相撲」という行為の意味を思わせ、翻っては作品に込めた彼の願いをしらしめるのである。 1975 東京生まれ 2003 多摩美術大学日本画科卒 | ||
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| 2009/12/7-13 | ||
| 長谷川裕子人形展ー冬の陽光 | ||
| 長谷川裕子の人形展は一昨年に続き二度目となる。 冬の陽光というテーマの今回の子供たちは、丁寧に手編みされたセーターに着膨れて元気な姿を画廊に現してくれた。 長谷川裕子は「心の奥底にある幼い日のせつなさを作品に重ねたい」という。母がそばにいないだけで不安だったり、けんかしてあやまれなかったり、なんとも形状できない心もとなさとともに過ごした幼い日々。 だれでも振り返れば幼い日の物語をもっている。長谷川はその一つ一つの物語に分け入るように人形をつくる。冬の日だまりのなかの昭和の残像として彼女の人形はいきいきとその時代を語りはじめるのだ。 長谷川裕子は1960年栃木県小山市生まれ。1982年に四谷シモン氏の創設した「エコール・ド・シモン」に入学、’84年には創形美術学校造形科卒業し、同年あの内倉ひとみが経営していた「スタジオ4F」で初個展。等身大の自塑像と並ぶパフォーマンスをした。その後個展やグループ展などを経て、シモン氏の作風の影響を脱し自己の表現に拘っていくようになる。 彼女の拘りとは、一つには技法上に木彫の球体関節人形という独自の路線を切り開いたことにある。またジャンル上では日本の伝統的な人形とも西洋の幻想的な人形とも一線を画し、見た目には素朴な自然体の作風をつくりあけたことも特筆すべきだろう。誰もやっていない、誰とも似ていないというのは作品としてはプラスだが、それ以上に孤独な道のりだということだ。 彫刻とも人形とも少しずつずれた場所に長谷川裕子はいる。もうジャンルという狭い枠にいれることはないかもしれない。彼女が作りたいものをつくっていけばよいだけのこと。長谷川裕子の世界が紛れもなく作品には展開されているのだから。 個人的な郷愁に留まることなく、言葉を持たなかった幼い時代の、ぬくもりと背中合わせのひりひりした哀しさを表現したいという長谷川の心情は、人形に魂を吹き込みそれぞれの作品の周囲にえもいわれない空気を醸成している。今回もその空気に惹かれ、大勢の方が見えてくださった。普段こわもての方もこの子供たちを目にした途端、なんともいえない笑顔になった。木の重み、暖かさとともに、これを削り出していった時間まで感じるのだろうか。そしてまた自身も子供の顔に戻っていくのだった。 | ||
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| 2009/11/30-12/06 | ||
| 高石久仁子展発進! | ||
| 高石久仁子が一年ぶりに帰ってきた。三度目となる今展では、統一感のある構成で大人度をアップ。マチエールを重ねた渋い画面が印象的だ。 高石久仁子は1968年東京新宿生まれ。1999年に多摩美大大学院日本画科卒業すると、公募展やグループ展などで旺盛な制作を始める。2007年に柴田悦子画廊で個展以来2008年、2009年と連続で作品を世に問い続けている。 今展では特に花卉の表現に長足の進歩がみられた。町田の近郊にある古代蓮の池に通い、花が咲き、枯れるまで取材を繰り返したという。丹念に下地を施したうえに岩絵具を盛り上げ、箔を貼る。さらにサンドペーパーで磨き、足したり消したりしながら出てくる景色をみて、場合によっては箔に焼きをかけて高石ならではの絵肌を作り上げて行く。その絵肌を殺さないように、今度は絵具で花や実を描き起こしていく訳だが、この加減が作者の美意識の見せ所だ。 高石久仁子の仕事は、あからさまな描写を嫌い、見えるか見えないかの境界を探って行く。描きすぎず、複雑に重ね上げた絵肌に思いを託して任せるのだ。どこで筆を置くか、これもまた今その時の画家の美学を映す。今展ではいぶし銀のような基調のもとに、ほのかにみえる花や実の彩りが実に美しかった。ストイックなまでに絵肌と格闘し、ぎりぎりまで色と線の調整に神経を使った力作である。 金箔地の、抽象的な線を残す蓮の二連作も複雑なエッジを描きながら時間を経た古閑な表情をみせていたのが収穫。重厚な底びかりを湛えた画面から在るともなく立ち上がってくる世界が思いがけなく深い。男子三日あわざれば刮目(かつもく)して見よーというが、高石もまた一年見ざれば目を見開くような進化を遂げていたのであった。 会期前に新型インフルエンザにかかり、鼻血を出していたという苦境を乗り越え、見事復活して無事展覧会を迎えた高石久仁子とその応援団の画像とともに展覧会のご紹介とする。 | ||
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| 2009/11/23-29 | ||
| 織田梓展ー経る時 | ||
| 織田有紀子から本名の織田梓へ。四年ぶりの個展となった今展では、一段と臈長けた作品世界を披露した。 織田梓は1960年長野県諏訪に生まれ、現在も在住する。1986年に多摩美大大学院日本画科修了後は精力的に個展・グループ展で発表、1995年ころから雅号・有紀子を使い始める。柴田悦子画廊では1999年に初個展ー以後連続して個展を開催してきた。 在住する長野で一貫して制作を続けてきた織田だが、順風とみえたその人生に荒波が押し寄せたのは4年ほど前。以来、制作はいったん休止された。 初めて経験する逆風を乗り越えて、ようやく絵筆を握った時、どう絵を描いていいのか途方にくれたという。それまで制作は息をすることに似て自然な営みだった。その4年のブランクを取り戻すために、織田は朝に夕に山にわけ入って自生する植物を描いたと振り返る。変転する人生に似て、山野の草花もまたその様相を変える、それを写し取っているあいだに心も手も平常の営みを甦らせたのだという。 そのようにして今展の作品たちは制作された。旺盛な生命を迸(ほとば)しらせる山の植物というモチーフは前と同じだが、描き手の世界観が違う。いわば盛んな朱夏の時期を過ぎ、玲瓏(れいろう)な白秋を迎えたすゞやかさが漂うのである。 「経る時」という今展のテーマに万感をこめた織田の想いは、それぞれの作品に格調の高さを与えて屹立(きつりつ)している。特に闇に浮かぶ竹似草の連作は、その根に毒を宿した草の花の妖しい美しさが圧巻だった。 この数年の「経る時」が織田に何を与え、何を奪ったか今はふれない。ただ一枚の絵を描く時には、織田の祖母が布を織ったように画家の「その時」が織り込まれていく。機(はた)のように「その時」「その時」を丹精こめて織り込むしか仕上げる道はないのだ。「経る時」を経て織り上げた「その時」も、また「経る時」に収束されるが、作品は残る。 そうして残ったこれらの作品に、かけらも作為や晦渋(かいじゅう)がみえないのは、「描く」という行為が祈りのようなものだったからに違いない。数多くのスケッチを繰り返しながら、静かなろうそくのゆらめきのように命を灯す山野の草花を幻視し、それをそっと絵筆に掬い出した印象だ。 今は昔、誰もいない教室で一人ユーミンを聞きながら一心不乱に絵を描いていた織田梓を思い出す。そして「空から経る時がみえる」というフレーズも。 | ||
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